山の町と、柱に並ぶ角

標高1600メートル。セレベス島、トラジャ高地の静かな町に、Nは足を踏み入れた。
空気は澄んでいて、山の影がゆっくりと動いている。ふと見上げた家の柱に、水牛の角が何本も重ねられていた。
「この角はね、葬儀で捧げた水牛の数。つまり、その家の誇りの数です」
近くにいた青年が、少しだけ誇らしげに語った。
派手な飾りではない。ただ静かに、重ねられた角が、ここに生きる人々の時間と誇りを物語っていた。
Nは、言葉ではなく形で残された想いに、深く惹かれた。
湿った島で仕上げられる豆

山あいの農園では、赤く熟したチェリーがかごに集められ、手作業で一つずつ確認されていた。
「この土地は湿気が多いから、時間との勝負です」
農園主が、チェリーを果肉除去機(パルパー)に流し込みながら話す。
果肉が外れた豆は発酵槽で一晩眠り、翌朝、丁寧に水で洗い流される。
そして、まだ水分を多く含んだ状態の豆が、脱穀機へとかけられる。
この地特有の「スマトラ式精製」。湿度の高い気候に適応した、合理的でありながら繊細な工程。
インドネシアは、世界でも有数のコーヒー大国。国全体ではロブスタ種の生産が中心だが、高地ではアラビカ種が静かに育てられている。
それぞれの島が個性を持ち、スマトラ島ではマンデリン、ジャワ島ではティピカ、バリ島やフローレス島、そしてここスラウェシ島では“セレベス・アラビカ”として知られる味が育まれている。
この地のアラビカG1は、湿潤な空気と高地の冷涼な風をまといながら、静かに精製されていく。
手の中の品質

小さな集買所では、麻袋からこぼれた豆が選別台に並べられていた。
「G1は、300グラム中の欠点豆が11粒以下なんです」
スタッフが語る声は落ち着いていたが、その目は真剣だった。
Nは一粒ずつ確かめられていく豆を眺める。誰かの手が、誰かの目が、そのすべてを通って仕上がっていく。
「この豆には、飾りはないけれど、確かに人の想いが積み重なっている」
赤土の丘、昼夜の寒暖差、そして小さな農家のていねいな作業。
味の背後にある風景が、ゆっくりと浮かび上がってくるようだった。
味わう:芯に残る香ばしさ

焙煎されたアラビカG1をミルにかけた瞬間、深く香ばしい香りが立ちのぼる。
豆を挽いたときの匂いには、どこか火をくべた薪のようなあたたかさがある。
ゆっくりと淹れた一杯を口に含む。
まず届くのは、しっかりとした苦味。だがすぐに、丸みを帯びたコクとやわらかな甘みが舌に残る。
深煎りならではの香ばしさが、静かに広がっていく。
「この味は、湿気の中で育ち、人の手で磨かれてきた記憶のようなものだ」
芯の部分にしか残らない何かが、確かにある。
結び:香りで語る、飾らぬ誇り

山の家の柱に並ぶ水牛の角。
豆を選ぶ人の手。雨上がりの斜面に広がる畑。
派手な言葉ではなく、静かな積み重ねが、この味を作っていた。
「形は残らなくても、香りは語る」
Nは、カップの底を見つめながら、小さく息をついた。
焚き火のように、ゆらゆらと漂うその香りのなかに、土地の記憶が溶け込んでいた。
※本記事は、インドネシア・セレベス島のトラジャ&エンレカン地域で生産される「セレベス・アラビカ G1」と、そのスマトラ式精製プロセスを基に創作されたフィクションです。
コーヒーの味わいとともに、その土地の記憶と人々の営みを感じていただければ幸いです。
この物語を、あなたのカップで。
西原珈琲店にて、ぜひお楽しみください。
—-風味バランス—-
苦味 ★★★
酸味 ★☆☆
コク ★★☆
甘味 ★☆☆
焙煎 ★★★
フレーバー:ほうじ茶、黒糖、シガー
農園データ
生産国 | インドネシア |
標高 | 約1,500m |
品種 | アラビカ G1 |
精選 | スマトラ式(スマトラプロセス/セミウォッシュド) |