第一章:ラパス、すり鉢の底に灯る星
標高3,600メートル。飛行機のタラップを降りた瞬間、希薄な空気が肺を小さく締め付ける。ボリビアの実質上の首都、ラパス。アンデス山脈の巨大なすり鉢状の盆地に、赤茶色のレンガ造りの街並みがへばりつくように広がっている。
夜になると、この街は姿を変える。すり鉢の縁までびっしりと灯った街明かりが、まるで宝石箱をひっくり返したように輝くのだ。冷たく乾いた夜風に乗って、どこからか不思議な香りが漂ってくる。
Nは石畳の坂道を歩きながら、その香りの正体を探った。それは、道端の屋台で売られているムニャなどのアンデスの薬草や、独特のスパイスが混じり合った香りだ。清涼感がありながら、どこか土着的な温かみがある。
この乾いた風の中にふと感じるスパイシーな気配。これから向かうコーヒーの奥底にも、これと同じ、大地に根ざした静かな香りが潜んでいる予感がした。

第二章:霧のカーテン、ユンガスへ
翌朝、Nは車で北東へ向かう。目指すはユンガス。アンデスの乾燥した高地と、アマゾンの湿潤な熱帯雨林が衝突する場所だ。
かつての難所を越え、標高が下がるにつれて、景色は劇的に変化する。乾燥した岩肌は姿を消し、視界は真っ白な霧に覆われた。肌にまとわりつくような濃厚な湿気。ここには、アマゾンの熱い息吹がアンデスの冷たい壁にぶつかり、永遠に晴れることのない雲海が広がっている。
この湿潤な気候こそが、ボリビアコーヒーの秘密だ。常に霧に包まれた環境は、コーヒーチェリーの成熟をゆっくりとしたものにする。直射日光を遮る霧の中で、豆はじっくりと糖分を蓄え、まるで木の樽の中で眠る果実のように、複雑な風味を育んでいく。

第三章:聖なる湖の眺め
霧のカーテンを抜けた先、標高1,500メートルの急斜面にコパカバーナ農園はあった。出迎えてくれたのは、農園主のマリア・アスカルンス氏。彼女はこの農園の二代目であり、スペイン・ガリシア地方から続く古い家系の末裔だ。
農園の看板を見上げ、Nはふと疑問を口にした。
「コパカバーナといえば、ここから遠く離れたチチカカ湖畔の街の名ではありませんか?」
マリアは霧の彼方を見つめ、静かに微笑んだ。
「ええ、地図の上では遠いわ。でも、コパカバーナという言葉は、アイマラ語で『コタ・カウアーナ』、つまり『湖の眺め』や『湖の展望台』を意味するの」

彼女は言葉を継いだ。チチカカ湖は、インカ神話における太陽神インティが生まれたとされる聖なる場所。そして、このユンガスの地もまた、アンデスの山々と湿潤な空気に抱かれた、命が生まれる場所なのだと。
「私たちは、この名を単なる飾りとして付けたわけではないの。この深い霧がもたらす恵みは、あの聖なる湖の湿潤な気候と同じ。ここは私たちにとって、パチャママ、母なる大地なの」
彼女の言葉には、自然への畏敬が滲んでいた。この農園名はアンデスの自然崇拝と、この地での農業が分かち難く結びついていることの証なのだ。
父から受け継いだティピカの木々が、霧の中で静かに呼吸している。古き良き品種を守り、現代の技術で磨き上げる。マリアのその覚悟は、聖なる湖への祈りにも似た、静かで強い意志だった。

第四章:夜に溶ける「樽」の香り
「夜に飲むのもおすすめよ」
マリアが淹れてくれたコーヒーを、農園のテラスでいただく。あたりは既に深い夜の闇に包まれていた。
カップから立ち上る香りを吸い込んだ瞬間、Nは息を止めた。
「これは……樽の芳香?」
そこには、長い時間をかけて熟成されたような、木のウイスキー樽を思わせる芳醇な香りがあった。ユンガスの霧が生んだ、ゆっくりとした発酵の記憶だ。
一口含むと、苦味が舌を撫でる。だが、それは攻撃的な苦味ではない。深い森の木々を思わせる落ち着きの中に、ほんのりとアジアンハーブのようなスパイシーな渋みが見え隠れする。そしてその奥から、カシューナッツのような滑らかな甘みがじわじわと湧き上がってくる。
「不思議だ。まるでお酒を傾けたように、心がほどけていく」
一日の終わりに、自分自身と向き合うための夜のコーヒー。マリアの祈りにも似た丁寧な管理と、ティピカ種が持つ野生の記憶が、この複雑な余韻を作り出している。
「聖なる湖の夢を見ているようね」
マリアが呟く。受け継がれた神話と、この土地の風土が、一杯の中で溶け合っていた。

エピローグ:冬の夜、琥珀色の時間
日本の冬、凍えるような夜。Nは、持ち帰った豆を挽き、丁寧にドリップする。
部屋に広がるのは、あのラパスの夜市の気配と、ユンガスの霧の匂い。一口飲めば、たちまち意識はアンデスの雲の上へと飛ぶ。木の樽のような芳醇な香りと、ナッツの甘い余韻。それは、静寂な夜の読書や、大切な思索の時間に、何よりも深く寄り添ってくれる。
これは、旅をするように味わう、大人のための琥珀色の時間だ。
この物語を、あなたのカップで。

西原珈琲店にて、1月限定ボリビア コパカバーナ農園をぜひお楽しみください。木の樽を思わせる芳醇な香りと、ほんのりとしたハーブやカシューナッツが織りなす複雑な余韻。伝統あるティピカ種を二代目マリア氏が現代の技術で磨き上げた、夜にも味わいたい一杯です。
商品データと風味
| 項目 | 詳細 |
| 生産国 | ボリビア多民族国 |
| エリア | ラパス県 ユンガス地方 カラナヴィ郡 |
| 農園/生産者 | コパカバーナ農園 / マリア・アスカルンス |
| 標高 | 1,350m ~ 1,550m |
| 品種 | ティピカ種 |
| 精選 | ウォッシュド(水洗式) |
風味バランス
| 苦味 | 酸味 | コク | 甘味 | 焙煎 |
| ★★★ | ★☆☆ | ★★☆ | ★☆☆ | ★★☆ |
フレーバーノート:樽の香り、ほんのりとしたハーブ、カシューナッツ、複雑な余韻

